「自由にやりなさい」と育てられたぼくたち

大学の後輩と二人で語っていたとき、お互いの両親について話が及んだ。
どこか、気性が似ていた気がしたから どんな家庭に育ったのか 気になったのだ。
二人とも、がつがつというよりは落ち着いた感じ。
でも、創造的に何かをやりたいという意志は強かったり、好奇心は伸ばしたい派だったり。

案の定、ぼくらの育った家庭環境も どこか似ていたようだった。
父の口癖は「自由にやりなさい」と、あれこれ進路に介入したりとかはなく
子は勝手に育てばいい、というような方針。母もそれをサポートしてくれる。
そのおかげで 今の自分の のびのびした生き方ができてるんだな、と思い、感謝する気持ちになった。
同時に、それとは逆な世界の足踏みを 周囲の日常に感じとったことがあって、気になった。
「子どもにはバイリオンを習わせることに決めた」
どこかで、このつぶやきを耳にした。
若いお父さんのことばだったみたいだが、
話の文脈から察するに 結婚したばかりで、子どもはまだ生まれていないよう。
自分と同世代の人たちが親になっていく中で、
前々から感じていたのだけど これがちょっぴり危険だな と思った。
まだ生まれてすらいない子どもに対して
自分が掲げる「私の理想な子ども像」に ぐいぐいのめり込んでるからだ。

もちろん、バイオリン自体はとても良い趣味だといえる。
けど、たとえば楽器を弾き続けるということは
単純にかっこよかったり楽しかったりするイメージの反面 かなりプレッシャーでもある。
ある知人に 楽器がものすごく上手な人がいた。
周りからみたら「今まで好きで長年やってきたからだろう」としか思えなかったくらいだ。
でも、ある事情で その人の奥深い気持ちを聞くことがあった。

「わたしは空っぽだ」「楽器は好きでやったんじゃない。そうするしかなかったから。」
「私だけ 他の子たちと遊びにいけないで 怖い先生といなくちゃいけなかった。
いつも怒鳴られてて、すごくつらかった。」
もちろん、好きで伸ばし続ける人もたくさんいる。
でも、そんな声を聴いてから 一概には言えたもんじゃないな、と思えた。
「有型」の子育て
親にもなれば、「こんな子に育ってほしい」という思いが生まれる。
だからこそ、自分が知っている情報やリソースのあらゆることを ひたすらつぎ込みたくなる。
野球をやらせる、バイオリン教室に通わせる、有名校への進学は前提、英語の習い事、読ませたい本・・・
「有型」子育て。
なにもかも、子どもにやってほしいことが「有」だらけなのだ。
この動機がどこに根付いてるのかというと、
ヘーゲルいわく、「欲望とは他人の欲望だ」という。
簡単にいえば、承認欲求のようなものだ。

ちょっと豪華なフレンチをディナーに食べたから 写真に撮ってインスタにアップする。
久しぶりに海外旅行に来たから そんなに必要じゃないけどその国独自ということで新しいバッグを買う。
ごはんを食べることやバッグを買うことが ほんとうにその人に必要で やっていることなのだろうか?
ジャンボードリヤールは 今の消費社会における商品のあり方を
【使用価値】と【記号】とに分類した。
上の例の場合、
「お腹を満たすごはん(フレンチ)」や「ものを入れる容器(バッグ)」としての機能が【使用価値】で、
「豪華なフレンチ」や「珍しい国」といった、「人がうらやましがりそうな追加要素」が【記号】だ。
子育てに当てはめてみる。
つまり、「理想の子に育ってほしい」と願う親としては、
自分に最も近しい存在である 子どもを理想(=記号)に仕立てることで、
その子に注がれるであろう称賛をそのまま 親自身の承認欲求を満たすために、使うことができる。
つまり、隠れた影にあるのは 親である本人が満たされていない思いなのだ。

たとえば、数々の習い事でも。
もし、その子本人がそうしたことを心から望み 自分からやりたいと願っているのなら
積極的にやらせていったほうが 良いだろう。
しかし、当の本人にそんなモチベーションもなく
親の意向がほとんどで 子どもは力も持っていないために なすがままになっているとき、
うわべだけは行儀よくしたがっていても 内心は全く違ったことを考えてる可能性が大きい。
子どもは敏感だ。父・母が何を期待しているのかを 肌で感じ取ってしまう。
肉親の前で本音を出すことはできなくなり、「親が理想としている自分の部分」だけしか演じなくなる。
与えるのは「有」じゃなくて「無」
ここで、「無型」子育てを勧めたいと思う。
冒頭に出した後輩のお父さんいわく「人を変えようとするな」がキーだそうだ。
野球もバイオリンも英会話も塾も 向こう側から望まない限りは 何も与えようとしない。
与えるのは「無」の余白だけだ。

とはいえ、完全に何もしない、というわけではない。
人を変えることはできないが 「導くための工夫」ならすることができる。
文学者・ゲーテを育て上げた家庭環境に見習おう。
ゲーテがイタリアに2年間行って紀行文を著したのは、
イタリアの絵が家の廊下に飾ってあり、幼少期のころから自然と憧れを抱くようになっていたからだった。
また、母カタリーナは毎晩 ゲーテに物語を読み聞かせ、
最後の場面になるたび「続きはまた明日」と本を閉じ、ゲーテのわくわくと想像力を養った。
ファウストを代表として 想像力をふんだんに発揮させた文学作品を次々生み出したのも
決して このような家庭だったことと 無関係ではないだろう。
環境を事前に整備しておいて、子どもが勝手に好奇心を抱くように仕向ける。
気になった子どもが「これってどういうこと?」と聞いてきたとき、初めて答えればいい。
最初から「これをやりなさい!(有型)」というと、なかなかうまくいかないだろう。
「無」から引き出していく
親が与えるのは 余白でいい。
著名な旅人である高橋歩さんが、母親のことを語っていたことがある。
「俺がこんな風に毎日を楽しく生きていられるのは・・・お母さんのおかげかもしれない、
俺が学校から帰ると、彼女は必ず “今日はどんな良いことあった?” と聞いてくれた。
そう聞かれるから、そのたびにじっと考える。
気が付いたら、毎日起こる良い部分に目を向けて 日々楽しくなった」
「今日」という白紙(=枠組み)に、「良かったこと」という色鉛筆(=素材/ヒント)をそろえさせる。
すると あとは勝手に 子どもが自分で 想像をはたらかせて キャンバスに絵を描いていく。
自身は「無」にして、「話すこと」よりも「聞くこと」に専念する。
たとえばミヒャエル・エンデの「モモ」は、そんな 人の話を聞くのが上手な女の子だった。
自分からは特別声を発さないにも関わらず、彼女に話かけていく人たちはみんな
その過程で 自分自身を見つめていき、想像力が沸いてくる。
彼女のように、ただただ積極的に 相手の心を聞いていればいい。
肉親といえど 他人
冷たく聞こえるかもしれないが、
ぼくは たとえ親と子であっても「他人」に過ぎないと思っている。
しかし、だからこそ
「日々違う生活を送っているから 親子といえどお互い知らない部分は必ずある」
「異なる人格を持つ存在として 尊重しなければならない」
と割り切れて、深い対話=ダイアローグをするきっかけが生まれる。
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
たとえば、親から熱心に勧められすぎるがために 読めなくなった本など 経験にないだろうか。
これも単純に、たとえ肉親であっても 自分の知らない価値観を押し付けられれば、
うんざりとしてしまうからだと思う。
ところが、深く話しのできて、信頼のおける友だちから「お前だからこそ読んでほしい」と紹介された本なら どうだろうか。
ぼくだったら、おそらく うれしく思い さっそく手を伸ばすだろう。
この違いは何かというと、根本にある価値観を共有し合えているかどうかだ。

友だちとは 自身がどういう人間になりたいか 何を目指しているのか 深く理解し合えているからこそ、
互いに深い部分で 応援したいという気持ちになる。
逆に、前者の親の場合は
「血を分けているから」という理由のない甘えに乗じてしまったからこそ、 不信感が生まれている。
(子どもに偉くなってほしいから伝記を読んでほしい、などの 親側の意図)
いくら血を分けた人間同士とはいえ、
異なる人格と経験を秘めた存在として 尊重することを 忘れてはならない。
こうして、ぼくは、「無」を与える父になりたいと思った。
どんな子に育つかはまったく分からない。だが、それをこそ、楽しもうじゃあないか。
人生は予測がつかないからこそ 楽しめるのだから。
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